man400's diary

本、映画の感想など

『女の一生 キクの場合』 深すぎて泣けない

遠藤周作は、文章が上手いとか、構成や技巧が優れているというよりは、小説のテーマ、そして非常に深い人類普遍のテーマ、がしっかりとわかるようになっている点で素晴らしい。

 

この小説『女の一生 キクの場合』のテーマは、信じる気持ちと想う気持ちを持つ人の強さ・美しさであり、またそうした心をまったく持ちあわせない人間の弱さ・醜さである。

 

江戸幕府が信仰を禁じたキリスト教を、隠れて信じ続けた人々「隠れキリシタン」が長崎にはいた。長崎の小さな村の農家の娘、少女「キク」は隠れキリシタンの村に住む青年に一途な恋をする。ある種の禁じられた恋である。しかしまったくキクは奥手で、片思いのままであるが。

 

青年の住む村人らは、ある日隠れキリシタンであること故に、それだけの理由で、罪を問われ、時の幕府、時代は変わって明治政府からも拷問を受ける、次々と延々と益々ひどくなる拷問を受け続ける。

気が遠くなり、途中死者が出て、ついには耐えられず棄教するものも出る。

キクは思いを寄せた青年を見捨てない。そんな感じを露程も見せない。

それどころか、むちゃくちゃに大好きなキリシタンの青年のためにすべてを捨てた自己犠牲の道を進む。

罪なき二人の若者を襲う苦難の道は、もはや報われる報われないの次元ではなくなり、人生は残忍と無残と恥辱に切り刻まれるものかに見えた。キリシタンの信じる気持ちは、拷問者には時に理解しがたい狂信に、時にまことの信念を持った侍のように見え、青年を強く想うキクは、どうしても聖女のようにしか見えない。

 

「いもしない神の奴隷なんかに俺はならない」

アメリカのロックスターの歌詞を思い出す。

いないと、思う人にとってはキリシタンらやキクの受難と悲しみはまったくの、

無駄ということになる。

キリシタンは「いもしない」とは考えない。

キクは神様のことなんか知りもしないまま、まさに神の示した愛の道そのものを生きた。聖者でも役職付きの信者でもないが、拷問弾圧に耐え抜いたただの田舎の農民たちのいたこと。彼らは口先だけで愛を説く者らより遥かに神に近くにいたのであり、キクの短い人生は神の教えそのものよりも、神の教えの実践・行いをすること、愛とはその行動であること、を著者は伝えたったのではないか。

女の一生〈1部〉キクの場合 (新潮文庫)

女の一生〈1部〉キクの場合 (新潮文庫)

 

 

そして、伊藤という奉行所で、新政府の役人としてキリシタンの拷問を指示し、キクを辱めたヒールがキリシタン・キクの美しさと対比される人間の弱さ、醜さを見せつけてくれる。キリシタンやキクの苦難にあってもくじけない心に、自分の下劣さ卑しさ根性の無さダメ人間ぷりをヒシヒシと自覚させられつつ、どうせ俺なんかクズだよといいつつ暗い欲望を、拷問と女郎買いで満足させ続ける。そんな彼も良い人間、立派な人間になりたいんだと心の奥では思っている。

 

彼こそ進んで神の奴隷になるべき人間であったのように思う。

現実的にキリシタンやキクのようにはとてもなれないというのが、普通の感覚ではないだろうか。神の救済と愛の射程の広さ、敬虔なキリスト教徒だけでなく、伊藤のごとき弱くて醜い克己心のまったく無い人間、自分でしっかり道を歩むめない者までも含める、を伝えたかったものと思われる。

このあたりドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のプロとコントラの章を思い出させる。奴従と自己(大概どうしようもない自己)喪失は、神の意図だろうかわからない。現代日本は無宗教が多数だと思うが、自らの道を見つけ自身の足でしっかり歩む人々ばかりであろうか。何かの奴隷となって自己を人の教えに預けた方が良い者、キクよりは伊藤に近い人間、も多いのかもしれない。

 

場所は15世紀スペインのセヴィリア。カトリックの大審問官は不審な者が、死んだ子を復活させるなどの奇跡を行っているのを目撃し、護衛の者に捕縛させる。彼がこの世に再臨したイエス・キリストだと悟った大審問官は、彼が人々に自由*1を 与えたことで彼ら人々が苦しむことになった、彼らは私に自ら進んで自由を差し出したのだ、と説く。さらに、人々が奴隷になってでもパンを所望する存在であ ること、非力で卑しい人間にとって「天上のパン(=自由)」は「地上のパン(=物質的充足)」に匹敵しうるものではないこと、キリストの偉業を修正して奇 跡、神秘、権威を付け加えて人々を従わせたこと、など人間は跪いて自由を差し出す相手を求めるものだと喝破し、彼を火焙りの刑に処する決断を下す。