man400's diary

本、映画の感想など

映画『悪の法則』 含蓄に富み過ぎの傑作 8つの感想

最高でした。好きな映画ベスト3に入ります!

 

『悪の法則』

 


映画『悪の法則』予告編 - YouTube

 

■なんといっても巨匠マッカーシーによる脚本

この映画の最大のウリは「コーマック・マッカーシー脚本」という点です。
マッカーシーは『ブラッド・メディリアン』でピューリッツァ賞を受賞したアメリカ文学の巨匠で、度々ノーベル文学賞候補に挙げられています。


なんというか、もう、期待通り寓話のようで神話のよう、絶妙にして深遠な作品でした。私は非常に楽しめたし、これからも何度も観るつもりです。

 

が、しかしです。

世界的メジャー俳優らの湧き出るような色香と普段の役柄の印象、
並びにプロモーションのミスリードから、ややシリアスなサスペンス映画というような期待で臨んだ人は困惑したり、あるいは不愉快な気持ちになってしまったりしている人も多いようでした。
普段のハリウッド娯楽映画を期待して観るとそうなってしまう為、
そのあたりに宣伝には少し注意を払ってほしかったですね。
しかしながら、こんな異端の作品を豪華ゲスト、有名監督を使って作るハリウッドの懐の深さは凄いです。
※以下、ネタバレ含む




映画「悪の法則」予告編 - YouTube


■あらすじ

カウンセラーは悪友の麻薬の裏取引に関わり、カウンセラーの意外な行動と
悪友の愛人の謀りにより麻薬卸元の麻薬カルテルの恨みを買ってしまい、
そもそも裏取引に手を染める理由であった愛して止まない婚約者をカルテルに誘拐・殺害される。ヒロインは殺害され、主人公はなすすべもなく悲嘆にくれ絶望に淵に突き落とされるという暗黒映画。
また、主人公と悪友チームとカルテルの間を取りもったと思しき仲介人もまた悪友の愛人により殺害され彼の海外口座の蓄えを奪われる。
愛人はアメリカから去り、新たな土地での活動目論見を協力者と思しき男に語り
終幕。


■感想

説明過少が故に(当然敢えてのことであり、映画撮影に着手前に何人ものその道のプロによる下読みは普通あると想像できる。コーマックマッカーシーに対してはプロですら遠慮はあったかもしれない)、
いくつもの読みが可能となっている作品の好例である。
また同じ理由から、話の筋が極端に追いにくく、唐突な突きつけられる不条理の描写に
動物的に反応するだけになってしまうか、
あるがままに観て残酷と悲しみのベールの下にあるいくつもの読みの可能性に思いを巡らすかになってしまう。
個人的に残念なのは、脚本つまり会話劇であってマッカーシーの小説で最大の楽しみである超絶動物・風景描写が見られないことであるが、これは小説だからこその醍醐味なのだろう。

先にあげたように、この作品ではストーリーの説はが少なく、事件の経緯も追いにくい。
文学作品は読者を煙に巻いて置き去りにするものではあるが、観る側としても自由に独自の読みをすることができる。以下、こんな読み方をしてみましたという個人的感想である(解説ではなく感想です)。


●1
悪行の報い

主人公は裏取引に関わったばかりに、トラブルに巻き込まれ、愛人を亡くす。
真面目にコツコツ、悪いことをせずに生きなさいというメッセージ。
そう読むことも可能かもしれないが、ちょっと違う気がする。

●2
慈悲が凶運のトリガー

国選弁護人として弁護する獄中の女性から懇願され、
何の見返りもないにも関わらず、自腹を切って女性の息子を出所させる。

その救済されたその息子というのは、実は麻薬組織から雇われている運び屋で、
彼がマルキナの罠により死亡し、麻薬を盗まれ、主人公らは濡れ衣を着せられる。
カウンセラーこと主人公が損得勘定だけで行動したならば、招かれなかった事態である。
何故顔も知らない男のために金を払って出所させたのか、それも一般道を時速300㎞でかっ飛ばすような狂った男のために。
理由なき善行。

いや善行ではない。よく確認せず悪党を解放したのだから。
当然カウンセラーの慈悲はマルキナの計算によるものではないだろう。
この人助けが行われて、それからマルキナの作戦が始まるのだ。
ちなみに、これは「ノーカントリー」で主人公ジョシュ・ブローリンが殺し屋シュガーに追われた理由が、麻薬組織のお金をネコババしたこと、と同時にその後家でじっとほとぼりが冷めるのを待たず、
現場で辛うじて息をしていた瀕死の男に水を飲ませるため、慈悲心からか、ノコノコ現場に戻ってしまって組織の殺し屋らに見つかってしまったことが直接の原因だったことと同じパターンだ。


よって、●1(麻薬取引参画・組織の金をネコババ)と●2(慈悲からバイカーを出所させる・
慈悲から瀕死の男に水を飲ませに殺害現場に戻る)
の2つの決断から、凶運(嫁殺される・殺し屋に追われる)は始まったのだ。

とりあえずここまではマルキナの魔の手は及んでなかったと思われる。
彼女の暗躍はこの後からであり、そう考えるとここまでのステップで主人公は死神の手に鎌を持たせたのだと言える。



●3
最高級ダイヤモンド購入で真理を見る、不条理を招く。

どんな人間もいつか死に、
それは愛する誰かであっても同じであり、
永遠の石ダイヤモンドが示唆するのは、命は儚いものという真理。
招いた結末は、愛と美しさを讃え決して離すまいと望むほど奪われるという不条理。
罰がくだるのは罪を犯したからであり無辜の人に悲劇は起きないはず、話せばわかる、善行は報われる、誰か親切な人が命を賭して助けてくれる、ヒーローがどこかにいる、自分だけは大丈夫。
マルキナの暗躍が始まるところから、この世の不条理を覆う常識的道徳、
キリスト教的価値観が引き剥がされているようだ。



●4
出会ったら最後、登山道の熊のごときものの存在

マルキナに関わった時点で主要登場人物らの結末は決まった。
他登場人物らはピューマ-獲物に見られるように、
ハンターを前にした小動物のごときもの。
例え、カウンセラーが運び屋を釈放しなくても、別の形で、彼らは罠にかけられた。
例え、濡れ衣で、何も害を加えていないとしても、それに出会えば最後。
超人的外道(変態、詐欺師)ことマルキナ、または2,000ドル近い損失を被った
麻薬カルテルの復讐といった圧倒的災厄の前に、
我々になすべきことはなく受け入れるかどうかだけが選択となるような時がある。

私個人はそうした経験はないが、それは確かにあるという説である。
否定はできないなと思う。
メキシコの麻薬カルテルの悪行の数々。Googleで検索するとすぐに

目につくと思うが(惨殺死体等の画像も多いため閲覧には注意)、世界が違う。

ウェストリーことブラピが口にした通り見せしめ殺人を初め、女性の誘拐・婦女暴行・殺害とその撮影ビデオ(WEB時代にあって助長されているそう)の流通は日常茶飯事であり、それを捕まえる警察も返り討ちにされる、抱き込まれるような土地であり、徹底抗戦を宣言した女性市長が殺害され野にさらされ、新聞にその無残な躯が掲載された。

そこはアメリカの隣にある地獄であり、平和の世にある一般道徳や社会通念の通用する世界とは別に、すでに存在している。

このあたりロベルト・ボラーニョ長編傑作「2666」でも読むことができる。毎ページ繰り返される若い女性の死亡記録は圧巻で、戦慄を覚える。


●5
マルキナこと超人 と その他大勢の凡人並びに臆病者ら

超人はその行いが善きものであれ、悪しきものであれ、
報いを受けることはない。
生まれながらの超人性をもつ者は、超人としての習性が備わっており
我々弱者の道徳基準を易々と踏み越え、己の糧とし栄える。
麻薬カルテルすら弱者の範疇であり、
作中で強調されたカルテルの残酷性(ウェストリー殺害に
残酷な凶器を敢えて使用したのは、卑劣なカルテルの手口を模倣し
捜査の目をカルテルへ向けさせるためだったと思われる)も
人間の臆病さ、弱さの現れである。

マルキナというキャラクターが最後まで分からないが、
ある種の超人的存在である種のベールの下に隠れた人間の本質、
弱さ、臆病さ、残酷さを浮かび上がらせ(解説させ)る
というような係りなのだろうか。
弱さは考え方の問題、臆病さは生存していくには必要な性質であって、
作中の現れ方というのは偏りがあるような気がする。
しかしそれが、残酷さ・卑劣さといった形で発露することも真実で
あり、我々が直視したがらない面だろう。
特に差別の記録、戦争記録、そして上にあげたようなメキシコ麻薬カルテルがらみの記事を見るときそうした考えは強くなる。



●6
欲望それ自体が、がけっぷち説。

仏教では人の中にある欲望が、この世を生きる苦しみの源であるというが、
がけっぷち状態で、酒に走った悪友ライナーがプールサイドでマルキナに言う。
「欲望それ自体が、がけっぷち」
しかし生きていく限り欲望があることは当然避けられず、欲望がなくても
死んでしまう(原始仏教以前では苦行中に死ぬ例もあったとか)。
では、欲張り過ぎが原因だとしたら、地獄を見ずに済む適度な欲望の水準とは
量的に見極めることが可能かというとそういうことはないだろう。

マルキナによる謀りと知らず死は自らの強欲が招いたとライナーが
思っただけだと私は推測する。強欲は真因ではなく、罠をかけたマルキナこそ彼の死の直接原因だろう。強欲それ自体より、強欲が招く凶悪な何かがあり、それが真に恐ろしいのだと思う。


●7
弁護士はバカでマヌケでぐうたらである説。

麻薬やら大金やらを摘むバイクを時速300㎞で飛ばす(捕まえてくれと言っているようなもの)イカれた罪人を、結婚前のフワフワした気持ちがあったのか、自腹を切って刑務所から出所させ、再犯させてしまうほどバカ。
悪人をのさばらせているのは弁護士が悪いという批判が見て取れるという視点。
またマルキナやカルテルなどの巨悪の前では、肝心の法律で戦うこともできず無力であり、危機にあって他所の州の知らないホテルの集合?という聞くからに危なっかしい提案に従ってしまうほどのマヌケ。
傲慢で強欲で、昼の14時まで寝てるようなグウタラ。

マッカーシーはひょっとしたら弁護士という存在が嫌い?なのだろうか。
主人公の弁護士先生は頭悪いとしか言えない描かれかたである。
共同経営の飲食店の内容も悪友ライナーが仕切っているようで、
まかせっきりのようであったし。



●8
一瞬一瞬が人生の曲がり角であり、そのうちのいくつかは
後戻りのできない決定的な決断となりあなたの世界を決定する。

悪の法則の支配する世界は、ある選択によってあなたの世界になる
ときがあるだろうが、それはあなたが選択する前から存在している。


神話のような寓話のような感触は、こういった文章から得られる。
選択の自由という考えとは違うのだ。
選択による不自由の始まり。選択不可能性。
マッカーシー文学の世界観の魅力を形作る要素である。




というように8つの感想あげました。
長文ですみません。

『女の一生 キクの場合』 深すぎて泣けない

遠藤周作は、文章が上手いとか、構成や技巧が優れているというよりは、小説のテーマ、そして非常に深い人類普遍のテーマ、がしっかりとわかるようになっている点で素晴らしい。

 

この小説『女の一生 キクの場合』のテーマは、信じる気持ちと想う気持ちを持つ人の強さ・美しさであり、またそうした心をまったく持ちあわせない人間の弱さ・醜さである。

 

江戸幕府が信仰を禁じたキリスト教を、隠れて信じ続けた人々「隠れキリシタン」が長崎にはいた。長崎の小さな村の農家の娘、少女「キク」は隠れキリシタンの村に住む青年に一途な恋をする。ある種の禁じられた恋である。しかしまったくキクは奥手で、片思いのままであるが。

 

青年の住む村人らは、ある日隠れキリシタンであること故に、それだけの理由で、罪を問われ、時の幕府、時代は変わって明治政府からも拷問を受ける、次々と延々と益々ひどくなる拷問を受け続ける。

気が遠くなり、途中死者が出て、ついには耐えられず棄教するものも出る。

キクは思いを寄せた青年を見捨てない。そんな感じを露程も見せない。

それどころか、むちゃくちゃに大好きなキリシタンの青年のためにすべてを捨てた自己犠牲の道を進む。

罪なき二人の若者を襲う苦難の道は、もはや報われる報われないの次元ではなくなり、人生は残忍と無残と恥辱に切り刻まれるものかに見えた。キリシタンの信じる気持ちは、拷問者には時に理解しがたい狂信に、時にまことの信念を持った侍のように見え、青年を強く想うキクは、どうしても聖女のようにしか見えない。

 

「いもしない神の奴隷なんかに俺はならない」

アメリカのロックスターの歌詞を思い出す。

いないと、思う人にとってはキリシタンらやキクの受難と悲しみはまったくの、

無駄ということになる。

キリシタンは「いもしない」とは考えない。

キクは神様のことなんか知りもしないまま、まさに神の示した愛の道そのものを生きた。聖者でも役職付きの信者でもないが、拷問弾圧に耐え抜いたただの田舎の農民たちのいたこと。彼らは口先だけで愛を説く者らより遥かに神に近くにいたのであり、キクの短い人生は神の教えそのものよりも、神の教えの実践・行いをすること、愛とはその行動であること、を著者は伝えたったのではないか。

女の一生〈1部〉キクの場合 (新潮文庫)

女の一生〈1部〉キクの場合 (新潮文庫)

 

 

そして、伊藤という奉行所で、新政府の役人としてキリシタンの拷問を指示し、キクを辱めたヒールがキリシタン・キクの美しさと対比される人間の弱さ、醜さを見せつけてくれる。キリシタンやキクの苦難にあってもくじけない心に、自分の下劣さ卑しさ根性の無さダメ人間ぷりをヒシヒシと自覚させられつつ、どうせ俺なんかクズだよといいつつ暗い欲望を、拷問と女郎買いで満足させ続ける。そんな彼も良い人間、立派な人間になりたいんだと心の奥では思っている。

 

彼こそ進んで神の奴隷になるべき人間であったのように思う。

現実的にキリシタンやキクのようにはとてもなれないというのが、普通の感覚ではないだろうか。神の救済と愛の射程の広さ、敬虔なキリスト教徒だけでなく、伊藤のごとき弱くて醜い克己心のまったく無い人間、自分でしっかり道を歩むめない者までも含める、を伝えたかったものと思われる。

このあたりドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』のプロとコントラの章を思い出させる。奴従と自己(大概どうしようもない自己)喪失は、神の意図だろうかわからない。現代日本は無宗教が多数だと思うが、自らの道を見つけ自身の足でしっかり歩む人々ばかりであろうか。何かの奴隷となって自己を人の教えに預けた方が良い者、キクよりは伊藤に近い人間、も多いのかもしれない。

 

場所は15世紀スペインのセヴィリア。カトリックの大審問官は不審な者が、死んだ子を復活させるなどの奇跡を行っているのを目撃し、護衛の者に捕縛させる。彼がこの世に再臨したイエス・キリストだと悟った大審問官は、彼が人々に自由*1を 与えたことで彼ら人々が苦しむことになった、彼らは私に自ら進んで自由を差し出したのだ、と説く。さらに、人々が奴隷になってでもパンを所望する存在であ ること、非力で卑しい人間にとって「天上のパン(=自由)」は「地上のパン(=物質的充足)」に匹敵しうるものではないこと、キリストの偉業を修正して奇 跡、神秘、権威を付け加えて人々を従わせたこと、など人間は跪いて自由を差し出す相手を求めるものだと喝破し、彼を火焙りの刑に処する決断を下す。

 

 

 

【本】「極北」 人類の終末を前にした人類の小説

人類絶滅間近の世界。水道電気ガスインターネット100当番なし。

 

極北

極北

 

 

文明は落ちぶれ、卑しさと狡さと死への絶えざる恐れと、仲間を持たない臆病な顔ばかり。そんな無法の大地を女性が独り旅する。

ロシアの田舎でどうにか生き残った彼女は、それでも自殺しようとして、でも失敗し湖から這い出たところで、目の前に墜落した飛行機から生きる勇気を得て村を旅立つ。科学と文明の残る土地、そこに生きる人々の間で生きたいと切望して。

 

全編人の本性について悲観的。主人公は自分の面倒は全て自分でみる。

衣食住すべてやる。他の人物は奴隷か原始人のような暮らしだ。

経済は自足時給であればあるほど貧しい。貿易や交流が不活発な世界に欠けているのは人が持つ不信や恐れ、自由と安全を保障する安定した社会秩序だろうか。

それとも平和なこの時代は、たまたま雲の切れ間からから私たちを暖める陽が差す恵まれた瞬間に生きているだけなのだろうか。